「天気の子」について、
- 「天気の子」と「君の名は。」のストーリー構成をあえて似せる新海誠の表現技法
- 陽菜の母の巫女説
- 須賀亮介の妻、明日香の巫女説
- 魚の泡は何を意味していたのか
に焦点を当てて考察したい。

ところで、新海誠は新宿ばかり描くが、新宿に何か思い入れか闇でも抱えているのだろうか。
「君の名は。」と「天気の子」のストーリー構成の類似と表現技法
映画館で「天気の子」を見ていて割と序盤から心に引っかかっていたのだが、「君の名は。」と「天気の子」では話の構成が非常に似ている。
確かに、商業的な観点からも、新海誠の新作は「君の名は。」のストーリーを意識せざるを得ない部分もあるかもしれない。が、それ以上に、新海誠が意図的に「君の名は。」のストーリーに寄せてきている気がするのだ。
例えば、
- 音楽とともに日常生活が早送りにされる描写
- 「神社」、「巫女」が物語の1つのカギとなっている
- 三葉が自転車が壊れながらも走り続けるシーン
- テッシーが変電所を爆破、サヤちんが町内放送を乗っ取って、それぞれ大人達に捕まるシーン
- 瀧の就活が順調でない描写
- 音楽とともに日常生活が早送りにされる描写
- 「神社」、「巫女」が物語の1つのカギとなっている点
- 帆高が有刺鉄線を乗り越えて代々木に向かって走り続けるシーン
- 夏美がバイクで警察をまいて途中でリタイア、圭介と凪が警察にタックルするシーン(直接的な描写は圭介のみだが、夏美と凪も御用になっているはず)
- 夏美の就活が順調でない描写
「君の名は。」と「天気の子」で話の構成が似ているのは意図的だと考えている。
というのも、仮説だが、
「君の名は。」において、主人公のすべき行動は、三葉と(町の人)を救う事。瀧が取ることのできる選択肢としては、ただそれのみであった。
「本来失われるはずの命を助けたことによって(本来結婚するはずであったカップルが出会わない世界線が生まれてしまったり)未来を変えてしまうのではないか」といった類の悩みは無く、主人公は、あくまで「救う」という決断しか用意されていなかったわけである。
一方で、「天気の子」では、「1人の女の子」を選ぶか、「災害」を選ぶか、「究極の選択」を余儀なくされる物語である。
その意味では、本作の主人公の帆高は、瀧よりも難しい立場に立たされているのである。
結果論としては、東京では3年間にもわたり雨が止まず首都機能の停止等の被害が発生したものの、日本全土各地で災害が暴発しまくる可能性だってあったわけである。それでも「たった1人の女の子」を選ぶか、「災害」を選ぶか、究極の選択である。言葉を選ばずにいえば、「君の名は。」の瀧とは比べようがないくらい難しいテーマに直面しているのだ。
結果、葛藤という概念はなく、「1人の女の子」を選んだわけであるが。またそこが気持ちよかったね。
巫女の力は母から受け継いだものではないか
病床に伏せる母を見守る陽菜。東京はずっと雨が止まない状態だったにもかかわらず、急に一筋の光が神社だけを照らした。
まるで、陽菜を導くかの如く露骨である。
光の射す神社で「また母と一緒に青空の下を歩きたい」と願った事で、陽菜は天気の巫女としての役割を得たのである。
そういえば、夏美と帆高が取材で訪れた神社の神主からは「天気の巫女は悲しい運命を巡っている」と発言があった。
陽菜が物語中で帆高と出会った時、彼女は15歳であった。仮に、母が28歳で陽菜を生んだとしたら、43歳で他界したことになる。
これは現代においては非常に短命である。
陽菜が天に祈る際、少し疲れを見せていたところを鑑みると、巫女の役割は、かなり体力を消耗するのではないだろうか。
母は、人柱にはならなかったものの、長期にわたり天気のバランスを取ろうとし、病に伏せてしまったのではないだろうか。
娘には同じような困難をさせたくない気持ちから、巫女の事は黙っており、娘に巫女を引き継がせる気持ちはなかったのであろうが、災害が暴発してしまえば結局は娘にも危険が及ぶ可能性もあるため、「また母と一緒に青空の下を歩きたい」と願う娘の気持ちに呼応する形で委ねた(未来を託した)のではないか。
母の形見である青のチョーカー自体に天を操る力はないであろうが、母の死後、陽菜は母の形見であるチョーカーを身に着けており、巫女の力が「母→陽菜」に受け継がれたことを隠喩しているのではないか。
陽菜が空から戻った場面でチョーカーが切れたが、
- 巫女の力を消失したこと
- 母からの自立
の2つを暗示する描写だと考えている。
魚の泡は過去の天気の巫女と陽菜の母ではないか
瀧のおばあさんから「空の上はお彼岸」との話があった通り、雲の上で泳ぐ魚の泡は、今まで人柱となった巫女を指しているのでは。
地上でも魚の泡が観測されたが、陽菜の母が陽菜を助けようと地上に現れたのではないか。
本来は、雲の上にいなくてはならない存在(=彼岸から現世には来れない)にもかかわらず、無理矢理現世に現れようとしたため、1か所ではなく、東京各地のバラバラの場所に落ちてきてしまったと考察している。(劇中では、東京中の様々な人がtwitterに魚の泡をアップしていた。)
バケツをひっくり返したような水が降り注ぐシーンもあったが、地上に戻った母を天が連れ戻そうとするシーンにも感じられた。
また、陽菜が空の上に人柱として行ってしまった時、大量の魚の泡が泳いでおり、これは感覚に過ぎないが、なんというか、歓迎するような、少し悲しいような、同情の気持ちで陽菜に寄り添う様子に近いと感じた。
須賀圭介の亡き妻も巫女だったのではないか
この考察が浮かんだ契機は、陽菜の母親と同様に、現代にしては短命すぎるという事に、違和感を感じたから。
圭介の亡き妻、須賀明日香は何かしらの巫女として役割を果たし、取材で訪れた神社の神主からあった通り、「天気の巫女は悲しい運命を巡っている」との事から、短命で亡くなってしまったのではないかと思っている。
そして、恐らく、須賀の亡き妻は、彼女が巫女であることを須賀に伝えていなかったのではないか。
須賀が安井刑事とのやり取りで突然涙が出てきたのは、なんとなくだが、点と点だった情報が線になり、「もしかしたら亡き妻も何かの巫女として、人柱として、亡くなってしまったのではないか」というぼんやりとした憶測、直感からかもしれない。
須賀明日香が「天気の子」としての巫女説もあるが、もし圭介に少しでも心当たりがあるのであれば、帆高に依頼する情報収集の題材として、候補が数ある中から、「これなんてどうだ」と「100%の晴れ女」を勧めるのは少し無神経なのかなと思っていたり。
また、雑誌「ムー」にて、「衝撃 東京を守る大量の人柱」と記載があるのも引っかかった。
「大量の人柱」とは、
- 天気の巫女が多数いる事を意味するのか
もしくは
- 様々な種類の巫女がいることを指すのか。
もし、天気の巫女が陽菜以外にもたくさんいるのであれば、東京は水没しないで何とか保っているはずだ。
そのため、天気ではない何か別の神に仕える巫女が東京にいることを示唆しているのではないかと思っている。そのことも含め、明日香は何か別の巫女だったのではないかと考察している。
しかし、映画は純粋に面白かった。雨の描写はアニメ界では右に出る者はいないと思うし、もう一度見たいね。
企業とコラボし過ぎだが、リアルと映画を一体化するものとして、意外と肯定的に感じているのである。